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礼拝
森崇

常盤台バプテスト教会 2025.8.17 主日礼拝 ヨハネ福音書講解⑫「誰(た)がために立つのか」森崇牧師【ヨハネによる福音書 5章1~18節】(新共同訳 新約P.171)


礼拝出席カード



音声メッセージ

礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。
礼拝プログラム
前奏                  
招詞    エフェソの信徒への手紙2章14~17節   司式者
祈祷                        司式者
賛美    新生326番「ガリラヤの風」
主の祈り
献金感謝
聖書    ヨハネによる福音書 5章1~18節
宣教    ヨハネ福音書講解⑫「誰(た)がために立つのか」  森 崇牧師
祈祷
賛美    新生385番「すべての人に宣べ伝えよ」
頌栄    新生674番「父 み子 聖霊の」
祝祷
後奏
宣教概要
「私は何のために生きているのだろうか」との問いを、人は誰しも持つことがあります。この問いの期間が長ければ長い程、暗闇の中のトンネルのように、いつまでたっても光が見えないという状況に陥ります。「何のために生きているのか」その答えはなんでしょうか。

イエスさまはエルサレムのベトザタの池で38年間寝たきりであった病人と出会われました。エルサレム神殿に参るために犠牲の動物の捧げ物が搬入される羊の門には祭りであったため、多くの人々が動物と一緒に出入りをしていましたが、この池を囲むようにしてあった五つの回廊には病人、盲者、足の不自由な人、体の麻痺した人が大勢横わたっていました。彼らは池の水面が動く時にまっさきに入ると癒されるその奇跡を待ち望んでいました。イエスさまは神殿には目もくれずに、38年間寝たきりであった人に目を注ぎ、またこの人の長い病を知られました。「見る」と「知る」とは主イエスの深い慈しみのまなざしです。38年間はイスラエルの民が荒野を彷徨った長い期間を想起されますが(申2:14-15)、彼の希望が全く尽き絶えた「死」の時でした。「良くなりたいか」(6)とのイエスさまの言葉は、「良く生きたいか」という希望への問いかけです。死んだものではなく、生ける希望を持つものとして。しかし彼には助けてくれる友はなく、自分では癒しの池に動くこともままならないことを告げます。この孤独のうちに横たわる人に主イエスは、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」(8)と言われました。「起きよ」(ギ語:エゲイロウ)とは「眠りから覚めること」(マタ1:24)、「病からの回復」(マタ8:15)、「死者のよみがえり」(ルカ7:14)を意味していました。それは「復活させられよ/起き上がらされよ」という神の言葉による復活を意味します。つまり、「起きよ」という主イエスの言葉は、彼を覚めぬ悪夢から解き放ち、病を瞬時にまた完全に癒し、霊的な希望(生きる意味を回復させる霊的ないのち)へと彼を招いたのでした。

而してこの彼の復活は自覚的な信仰なしに、ただ主の深い憐れみのみによってなされたのでした。彼はその証拠に、癒してくれた人の名前を知りません。彼と主イエスとの出会いはベトサダの池を過ぎ、羊の門を経由して神殿境内において再び起こります。主イエスは言われます。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」(14)この言葉は病気を罪の結果として見るユダヤ教の考えではありません。罪の故に病気になったのではなく、むしろ主イエスの赦しといやしの中で生きることにより、終わりの日の裁きを逃れなさいという勧めでした。ユダヤ人たちは働くことを禁じていた安息日(土曜日)に病人をイエスが癒したことを知り、イエスを迫害し始めます。ユダヤ人たちは自分たちの掟や戒めを大切にしていましたが、律法から解放してくださる主イエスを拒絶しました。

主イエスが神殿の境内にいたのは、おそらく偶然ではありません。律法主義の社会の中にあってその大きな流れに反して生きていたことを示したものです。主イエスとの出会いは、病から解放した後に彼を何のために生きるのかという3つの答えへと導きます。①律法ではなく、復活に生きる。ユダヤ教は安息日を大切にしますが、主イエスを信じた初代教会はイエスさまが復活された日曜日を何よりも大切にしました。②赦しに立って生きる。イエスさまがこの病人のすべてを受け入れてその人を復活させられたように、神の愛を伝え、実践する生き方に立つことができます。③神のために生きる。主イエスは「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」(17)と言われました。それは主イエスが全く神と同一であり、この神を父と呼んで親しく生き、父の御心を果たそうと生きたように、また主イエスと出会う一人ひとりにも律法の支配下ではなく、父なる神の思いを果たして生きる生き方へと招いておられます。この時代の中にあって、私たちは誰のために、何のために生きるのか。主イエスより共に示されて歩みましょう。